ゲームは生活に在って良い物? 悪い物?

子供たちにとって人気のあるコンテンツというと マンガ、アニメ、ゲームでしょう。 これらのコンテンツは子供たちにも理解しやすく作られており、内容も面白く 考えさせられるものがあったりします。 全てがそういった作品ばかり・・・とは言えませんが、傑作、良作といわれるものも数多くあります。 しかし、問題は作品自体に問題があるわけではない場合が多いです。 問題は子供たちにとっての環境・・・家庭内にあります。 子供たちが夢中になるほどに面白いと感じているもの・・・それを両親が「面白くない、つまらない」と切り捨てます。 こういった価値観の違い・・・は 親子であれ世代であれ あちこちにあります。 親が良いというものを子供が悪いと言い、子供が良いというものを親が悪いと否定する。 人間は幼稚園の入園前から自我を持ち、以降は その「我(われ)」を育てて生きています。そうやってその人なりの価値観を身につけていきます。そうやって個人個人の価値観が形づくられていきます。 その時代の、その世代の、その社会の影響を受けながら。 そうやって出来上がった価値観は共通性がなく、個々の人の『認識の形』でしかありません。 「カラスが黒い」を理解するためには、カラスという鳥を認識し、黒いという色を認識し、その2つを合わせた状況が「カラスが黒い」だと認識できるわけです。その共通性を持たせるために行われているのが学校の勉強です。 学校の勉強で得られた『カラスが黒い』という認識を持つことで 他人との意思の疎通と認識の共有が可能となり、社会を形成することができるようになりました。 しかし 社会が複雑になった結果、人間は複雑になってしまった社会を認識し 理解することを諦め 『勉強する』をしなくなりました。 そして 自分の認識と他人との認識の違いに苦悩するようになったのです。 他人を自分の価値観の枠なかに押し込めて、自分にとって都合のいいようにコントロールしようと苦しみます。 それを行なって良いことがあるのは、実は『それを行なっている人にだけ』なのです。 そうやって人は『自分勝手な生き物』に成ってしまうのです。 マンガやアニメやゲームといったコンテンツは、実は昔からある書物や絵画といったコンテンツと同じで、自分勝手な生き物にならないための考え方、生き方を学べる寓話として作られています。 問題なのは『子供が ただ面白いから』という理由だけで楽しんで、その作品から何も学ばない・・・部分にあります。そこを大人が教えなければならないのですが、肝心の大人がそれを理解できていません。 自分には関係ない物として なんとなく批判して否定します。 面白さを理解している子供たちの声も無視します。 家族で向き合って、家族で学んで、家族みんなで楽しめたら・・・面白いコンテンツだと思うんですけどね。 自分は嫌いだ、バカバカしい、つまらない・・・なんでそう感じたのか?ちゃんと考えてるんでしょうか?おもしろいという子供の意見に耳を傾ける必要はないのでしょうか?そうやって自分勝手に向き合うから、それらのコンテンツの面白いが理解できないのです。 同じゲームでも面白いと思って向き合えば面白いし、つまらないと思って向き合えばつまらなくなります。それを決めているのは他人ではなく自分なんですよ。 良いも悪いも使い方、向き合い方・・・それを知らなければ馬と鹿の違いは理解できないでしょう。 娯楽はどこまで行っても娯楽です。 向き合い方によって変わるもの・・・ならば価値のある作品として向き合いたいものです。